毎週金曜日が更新日の当ブログ。
いつも通りホテルの記事を予約投稿しようと投稿日時を設定しようとしたら、
本日3月11日が金曜日でした。
なんとなく通常記事を上げるのが躊躇われたので、あの日のことを記録しておこうと思います。
(※東北の被災地に関する写真、描写はありません)
目次
あの日のわたし
2011年3月11日14時46分
学部生だった筆者は、春休み中で実家に帰省中。
午後からシネコンに映画を見に行く予定だったので、この時間は車を走らせていました。
その直後、親から電話がかかってきて
親)地震で揺れたけど、車大丈夫?
私)地震?いや、全然(ちなみに震度2-3でした)
親)そう、とにかく「東京」が大変なことになっているからテレビをつけて。
意味がわからず、携帯のワンセグをつけて絶句しました。
おびただしい量の地震速報のテロップと同時にお台場のテレコムセンターが燃えている映像が映し出されていました。
東京で大きな揺れがあって相当混乱してそうだったのでしばらく映像と音声を聴いていたら、映像が仙台空港に切り替わり、飛行機やトーイングトラクターが津波で流されている映像がライブで流れてきて、「東北で起きた地震」ということを知りました。
幸い地元はなんの影響もなかったので、この時点では知らない人も多く(自分もあれだけ甚大な被害が出たことは夜に知った)当日は混乱も自粛もなかったので映画は見ましたが、全然覚えていません。
それから大学は臨時休校という扱いで春休みが延長され、地元に帰省している学生はそのまま留まるよう指示があったので、予定より2週間ほど長く帰省していたと思います。
その間はずっとテレビに釘付けでした。
11年経った今でも震災の映像を見ると勝手に涙が出てくるの、あれなんなんでしょう。
関東に戻ると、下宿先やキャンパスの地盤が緩み、液状化していて、テレビの中の映像が現実だったと認識。
キャンパスや下宿先が海に近く海抜が低かったので、避難先の場所・海抜を確認して日々の緊急地震速報に神経を尖らせていた時期がしばらくありました。
(授業中に大きく揺れることが多くて、皆安全確保への動作がスムーズになっていたのが懐かしです。)
震災後の被災地への意識
大学病院からスタッフの派遣はありましたが、さすがに学生の派遣はなし。
授業と部活は通常通りあり、ボランティアに参加することもありませんでした。
今思うと、土日だけでもいけば人生の糧になることもあっただろうと思うのですが、
実際は募金と、ちょくちょく東北の食べ物をお取り寄せする程度で留まっています。
微力でも意識を向けられていたか、答えはわかりません。
一度も自然災害にあったことがない自分
自然災害の多い日本。
毎年どこかで大きな自然災害が起きていて、自分が居住していた地域で発生したこともありましたが、今回のように発生時は別のところにいたりと、一度も自然災害の被害の当事者になったことがないので、被災地はともかく、帰宅困難の大変さもわかりません。
だからこそ、あの日の衝撃を忘れず、いつ遭遇するかわからない災害に対して備えだけはしっかりしておこうと日頃より準備はしています。
(子どもができて意識がより高まりました。)
総括
東日本大震災から11年目の今日、あの日を少しだけ振り返ってみました。
自分が20代から30代になったのと同じように、あの年に生まれた子どもたちは小学校高学年になり、あの頃被災地の子供たちとしてフォーカスされていた子たちは成人し就職しているわけで、時の流れを感じずにはいられません。
自分達でいう阪神淡路大震災のように「その時生きてはいるけど小さすぎて記憶にない」出来事、いわゆる「教科書上の出来事」である子供も、当たり前だけど年々増えているわけで。
(我が子は熊本地震時ですら、まだ産まれていなかった。多分コロナが教科書の出来事)
我が子にだけでも、あの日のことを教え、「備えよ、常に。」の精神で地震大国日本で暮らす術をつけてあげられたらと思います。